山奥の自然に囲まれた中で、自由に、のんびりと自給自足の生活をしてみたい。 …昔の私は、それが“夢”でした。
しかし、それは“自分だけ良ければ良い”という、自分の事しか考えない生き方であるという事に気付いたのです。
私の生き方を大きく変えてしまったのは、
鹿児島県の知覧にある知覧特攻平和会館で読んだ、“若き特攻隊員が書いた短い遺書”です。
それまでの自分と言えば、
「他人は他人、自分は自分。他人に迷惑をかけなければ、何をやってもよい。」という、誠に自分勝手な生き方でした。
他人の為に何かをしようとか、国の為に何かをしようようなど、思った事は全くありませんでした。
「今さら何も言うことなし。あとの事を頼む。」と書かれた短い遺書が、私の生き方を大きく変えてしまったのです。
●今更、何も言うことなし。… これから死に逝くのですから、言うことがない訳ではありません。 いくら言っても言い足りない筈です。
●あとの事を頼む。… 戦争に勝てると思って死んで逝った訳ではありません。
優秀な人達ばかりが、「自分たちの死は、必ず、戦争が終わった後の講和条約に役立つ筈である。」との気持ちで、
たった一つしかない、尊い命を日本の為に捧げられたのです。
➡あとの事を頼む!… この言葉は、“この遺書を読んだ自分に言っているのではないか”と感じました。
同じ遺書を読んでも、読む人によって感じ方が違います。
遺書を読まれて、どう感じられるでしょうか?… ただ単に、可哀想だとしか感じない人も多いと思います。
➡※私の場合は、この短い遺書を読んで、自分の人生が大きく変わってしまったのです。
➡※その後、相対磁波研究所の山崎好世先生の後ろ姿から、自分にできる事を精一杯に実行して死のうと思ったのです。
自分にできる事を実行すると言っても、たかが知れています。
しかし、ほんの小さなことでも良いと思うのです。
誰に、知られる事もなく、それが無駄になったとしても良いと思うのです。
自分にできる事は、とにかく何でも実行しようと思います。
あの戦争の頃、もし自分が英霊の方々と同じくらいの年齢で生きていて、
同じように死んでいたとするなら…と思った時に、今の自分の人生は、オマケの人生ではないかと思ったのです。
私は、一生涯、英霊の方々を忘れません。
英霊の方々の尊い犠牲があったからこそ、今の日本があるのだということを、1人でも多くの人に伝えていきます。
神風特攻隊員たちの遺書 ~神風特攻隊員の兄と幼き妹~ 特別攻撃隊<最後の手紙>
【史実】神風特攻隊の遺書 ~三歳の娘に送った手紙~ 神風特別攻撃隊大和隊
【神風特攻隊の遺書】 植村真久海軍大尉 須賀芳宗海軍大尉 町田道教海軍大尉 若麻績隆海軍大尉
若き英霊の方々の“潔い姿”に、自分の生き方を反省させられました。… 自分が、本当に“恥ずかしい”と感じました。
国の為に、自分のたった一つの命を捧げられる英霊の方々と、
自分の事しか考えずに生きる自分を比べると、言葉を失ってしまいます。
もし、あの頃、同じような年齢で生きていたら、自分はどうしていたのだろうかと考えた時、
私は、間違いなく、「死ぬのが怖くて逃げただろう。」と思いました。
私は、非常に“弱虫な人間”です。
私は、英霊の方々の事をずっと忘れません。
忘れないという事は、英霊の方々は、“私の心の中に、ずっと生き続けている”という事です。
知覧の特攻平和記念館には、5回行きました。 知覧特攻平和会館
知覧から25kmほど西にある南さつま市加世田の加世田市平和祈念館にも、3回行きました。 加世田市平和祈念館
靖国神社には、東京に行く度に、時間を作っては参拝し、 靖国神社 遊就館(靖国神社)
英霊の方々に対して、誠の感謝の念を捧げています。 筑前町立・太刀洗平和祈念館
自分の決意が揺らがないよう、度々、参拝しながら自分の気持ちを修正しているのです。 佐賀・西往寺(特攻隊員が待機した寺)
生きた時代が違うとは言え、
自己を100%捨てて国の為に自分の命を犠牲にした潔い姿を目の当たりにしながら、自分の生き方を反省するのです。
英霊の方々の姿を目の当たりに見ると、自分の生き方は“偽善”そのものです。 )
平成25年6月7日にも万世特攻平和祈念館を訪れましたが、
68年前の同じ日に、6人の若者が万世特攻基地から飛び立っています。
その若者の姿を見ながら、若者の気持ちを考えていると涙が自然に溢れてきました。
8日には、4人の若者が飛び立っています。
“明日は自分が死ぬのだ”と覚悟した若者の気持ちを考えていると、涙が止まりません。
次々に、涙が溢れて止まらないのです。
6月11日には9人の若者が飛び立っています。 それが実質的には、最後です。
もう飛び立つ飛行機が無くなったのでしょう。
私が、いくら時間を作って靖国神社に参拝したところで、それで何かがどうにかなるというものでもありません。
全く、無駄な事をしているように見えるかも知れません。
しかし、私は英霊の方々を忘れてはいけないと思うのです。
英霊の方々の尊い犠牲があってこそ、
今の日本があるのだということを、絶対に忘れる事があってはいけないと思うのです。
たとえ、全ての日本人が英霊の方々の事を忘れてしまったとしても、私は絶対に英霊の方々の事を忘れません。
➡カレンダーの祝日には、日の丸の国旗が削除されています。
しかし、その事に気が付かない人ばかりです。 →全く、自分以外の事には無関心なのです。
保守系の人達でも、皇室のカレンダーから日の丸の国旗が削除された事に気が付いていませんでした。
私は、自分にできる事を精一杯やって、死んでいこうと思って生きています。
だから、すぐに「祝日に日の丸を印刷したカレンダー」を印刷し、全国に無料配布を始めました。
毎年、僅か1万本くらいの数を印刷して配布しているだけですので、
1億以上いる日本人の人口からみれば、全く配布されていないのと同じです。 ➡※ 希望者には、無料でカレンダーを差し上げます。
しかし、私は無駄になっても良いから、自分にできる事を実行して死んでいきたいと思うのです。
それが、私が尊敬する相対磁波研究所の山崎好世先生の後ろ姿から学んだ事なのです。 『相対磁波』
明日の日に死ぬかも知れません。
いつ死んでも良いように、毎日、悔いのない人生を歩んでいきたいと思い生きているのです。
(お願い)自社でカレンダーを印刷されている日本の企業は、是非とも、祝日に日の丸の国旗を印刷して頂きたいと思います。
昨年、『永遠のゼロ』という映画がロングセラーになった。 『永遠のゼロ(予告)』 『永遠のゼロDVD』
映画を見ながら、涙が溢れて仕方なかった。
映画の中で、主人公が「あと10年もすれば、我々の世代はみんな死んでいなくなる。」と言った言葉を聞いた瞬間、
私は、日本の農業の事を思ったのです。
あと10年もすれば、戦前生まれの人達が死んでしまい、若い農業後継者がいなくなる。
➡※若い農業後継者がいなくなるという事は、日本の農業が潰れるという事であり、
日本の農業は潰れるという事は、日本が潰れてしまうという事を意味するのです。
「どうすれば良いのか?」… ゆっくりと考えている時間は、もう残されていないのです。
私が、“ピロール農法”の普及に力を入れているのは、
今の日本の農業を救える方法として、
ピロール農法を全国に普及させる以外には、“具体的な方法”がないと思うからです。
ピロール資材を使用して栽培された米が、
その年に行われた「米食味分析鑑定コンクール・国際大会」において、見事に“金賞”に輝きました!
太古の昔から土壌中に眠る“シアノバクテリア(藍藻)”を増殖させる事によって、短期間で“土壌が蘇った!”のです。
シアノバクテリア(藍藻)は、
今世紀最大の猛毒と言われるダイオキシンまでも、簡単に分解するという事が解っています。
例え、農薬を使用したとしても、ピロール作物からは“農薬が検出されていない”のです。 ピロール農法
昭和30年くらいまでは、ほぼ中性だったと言われる雨が、現在では、年間平均pH4.6という“強い酸性の雨”が降っているのです。
雨の降り始めには、ph3.2という、酢と同じくらいの強酸性の雨が降っているのです。 平成22年度酸性雨調査結果(環境省)
➡※強酸性の雨の影響で、土壌中の“微生物の生態系が変わってしまった”のです。
雨という農作物にとって最も重要な環境条件が変わったしまった事で、“昔ながらの農業”は衰退を始めています。
その証拠に、昔ながらの農法で栽培された農作物の詳しい“分析データ”を見て下さい。… ※分析データを見れば、簡単に納得します。
味だけでは“品質の良し悪し”を証明する事はできませんし、味覚は人により全く違います。
➡※ 世界は、分析データのない物は、相手にされません。
「酸性の米から、弱アルカリ性のピロール米に変えませんか!」
30年以上のデータのあるピロール農法は、世界に対して堂々と勝負できる唯一の農業なのです!
英霊の遺書・その他
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